Zephyr Cradle

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狩るモノ、狩られるモノ


 今夜も奴が動き出したようだ。遠くから小さくも確実に聞こえてくるその音は、奴が狩りをすべく宙を舞っているもの。多くの人間はその奇異な音におののき、恐怖する。かく言う自分もその一人だった。
 草木も眠る丑三つ時、俺はその音に目を覚ました。
 奴が狩りに出る、ということは今宵もまた犠牲者が出るということ。奴の趣味嗜好は俺たち人間には理解することが出来ないが、しかし毎晩奴の犠牲者は後を絶えないということは確かだ。何の罪もない道行く社会人か、はたまた生まれたばかりの乳児か。
 奴の一族は見境なく人を襲う。その体液を奪い、代わりに少しの毒素を注入して次の標的へと移る。体液とは即ち、人体の重要な構成要素である血だ。奴はそれを自らの糧として、毎夜こうして人を襲うのである。
 飢えれば昼夜構わず現れるが、基本的に活動は夜が中心になる。「吸血鬼」の異名よろしく太陽の輝きを苦手とするのかもしれない。
「……今日こそは、()ってやる」
 静かに自らに暗示をかける。奴は音の揺らぎを感知する能力に欠いているので、言葉を発する分に支障はない。
 目を覚ましたが、ここで寝床を出る必要はない。むしろこのまま寝付いている振りをしていた方が奴には良いカモフラージュになる。だから目を瞑ったまま、静かに耳を澄ますことにした。
 奴が移動手段としている空中飛行は確かに厄介である。俺たち人間は空を飛ぶことが出来ないというにも関わらず、敵は空という広大な領域を味方につけて俺たちを襲い、逃亡手段としているというのは不利以外の何物でもない。空中というのは、二次元である地上よりも桁違いに壮大な三次元の空間だ。まさに次元が違う。
 だがその代償として奴は中空を移動する際、決して消すことの出来ない飛行音を発する。それは確かに微細な音量で、遠く離れた場所の音を聞き取るのは不可能だが、しかし奴も食事の際には人に近づかねばならないのだ。その時には確実に、奴の存在を示す音を聞き取ることが出来る。それを頼りにすれば奴を殺るのも困難ではないのだ。
「……」
 勿論それは理論上の話だ。奴の位置を完全に把握したとて、その動きに追いつくことが出来なければ意味がない。対人間用に磨き上げられたその俊敏な動きを捉えることは容易ではない。並大抵の人間はあっけなく必至の抵抗をかいくぐられ、奴の毒牙の餌食になるのが常だ。
 不意に奴の音が近づいてくる。どうやら俺を標的に決め込んだようだ。
 残念ながら俺は、他の人間とは違う。これでも「ヴァンパイアハンター」の二つ名を名乗る人間。奴が人を狩る能力に長けているというのならば、俺も奴の一族を狩る能力に長けているのだ。
 幸いにも、奴の一族に俺の存在は知られていない。それは俺の働きが足りないのかもしれないが、それ以上に、俺は一度たりとも奴らを逃したことはない。即ち、俺がヴァンパイアハンターだと悟られるよりも前に、奴らは既に消滅しているのだ。
 ヴン、と奴の存在感が急に大きくなる。音の反響から音源の位置を判断すれば、恐らく奴は今、俺の足先に居る。
 寝床に寝そべっているがために、その位置は俺の射程範囲外だ。足から吸われてしまうと咄嗟に反応することが難しいが、しかし奴はもっと吸いやすい位置で血を吸うのだ。足先などという毛細血管の先端で吸うような真似はあまりしない。なりふり構わずに空腹をきたしているのならば別だが、今宵の奴はそうでもないだろう。
 まるで俺をあざ笑うかのような羽音が再び聞こえてくる。どうやら位置を変えようというのだろう。好都合だ。そのためにこうして布団から顔と腕を出し、奴が血を吸いやすい部分を露出させておいたのだから。
「さあ……今宵の戦場は何処だ」
 気分が高揚してくる。奴が俺らを狩る瞬間にどんな気分なのかは定かではないが、しかし俺と似たような気分であるはずだ。自分よりも劣等である存在をなじり、いたぶり、そして捻り潰すというのは考えただけでもぞくぞくする。この感覚は一種の麻薬のような物だ。
 奴の動きが羽音共に鮮明に把握される。俺の耳に響いてくる音はもはや消すことの出来ない音量を伴い、互いにいつでも殺し合える距離に入っている。
 だがここで先手を打つのは愚行だ。多くの人間はこの不快な羽音に恐怖し自制心を欠くため冷静な判断が出来なくなり、反射的に反応をしてしまう。しかし、その瞬間に勝負は決してしまうのだ。
 奴も考えなしに接近戦を試みようとしているわけではない。常にこちらの動きを読み、いつでも回避行動に出られるように身構えているのだ。白兵戦に持ち込もうとしている際には当然如く、最大の注意を払っているに決まっている。
 ――狙うべくは、吸血の瞬間。
 奴の動きが止まる。首筋に自分以外の生き物が触れる感覚がした。
 牙を肉と肉の間に埋めようとした瞬間こそが、俺の勝機だ。
 更に気分が高揚する。早く奴を狩れという意志が俺に訴えかける。だがまだだ。確実に奴を捉えるためには、まだ機が熟していない。
 奴も血が騒ぐのか、どことなく落ち着かない。それはそうだ。狩りの瞬間ほど、落ち着かない時など他にあるものか。これは俺でなくとも、この弱肉強食のヒエラルキーの中に居る森羅万象全ての存在がそうだろう。
 静かに、奴の感覚が俺に近づいてくる。
 俺は拳をゆっくりと開く。得物は要らない。この腕一本で十分だ。それ以外に得物が在れば、心に油断と隙が出来てしまう。
 首筋にちくりと極細の針が刺さるような感覚がある。喜び勇むような感覚がその牙から俺にも伝わってくる。
 ああそうだ。俺も嬉しい。お前を殺ることが出来るのだから。
 ――今こそが好機だ。

「食らえ――ッ!!」

 パアン――と気持ちのいい音が部屋に響いた。
 俺の平手と首筋が弾ける音。確実に殺ったと思わせるような快楽の感覚が二箇所に残る。
 その甲高い悲鳴のような音は、しかし奴の悲鳴ではなく――俺の悲鳴だった。
「な……ッ」
 耳には再び、かの忌々しい羽音が聞こえてきたのだ。
 明かりのついていない部屋で俺の手元を見やると、そこに奴を殺ったと確信させられるような痕跡は何も残っていなかった。
 俺をあざ笑うかのように奴の羽音がヴン、と響く。
 そして奴は標的を変え、横で眠っている――姉貴の元へと移動を始めたのだ。
 大の字を書いてにやにやと笑いながら心地よさそうに眠っている俺の姉貴は、奴の接近どころかまだ存在にすら気付かずに夢の中に居る。
「くそ、フェイクか……!」
 だが気付いた時には遅かった。
 奴は既に羽音を止めている。姉貴のむき出しの肌の何処かに居着き、既に牙をむいているのだろう。だが俺にはそれがどこなのかまで判らない。あの羽音が止んでしまうと、俺は無能以外の何物でもないのだ。
「何処だ、何処に行った!!」
 奴の姿を暗闇の中で目視することは不可能に近い。周囲の黒にとけ込まれてしまえば、もはや見えない吸血鬼の恐怖の塊そのものだった。
 油断した。まさかそこまで知恵を身につけていたとは思っても居なかった。
 背中に冷や汗が流れる。
 久々に覚えた感覚だ。これが恐怖というものか。
「姉貴ッ!」
 俺にはただ彼女を呼ぶことしかできなかった。もはや頭の中は真っ白だった。
 姉が蹂躙される瞬間など、絶対に避けなければならない。俺の大切な――

 パアァン――――――ッ!

「……え?」
 突如響いた破裂音はキンという耳鳴りを残し、それと同時に部屋の中は急に気温を落としたかのように寒々しく静まりかえっていった。
 変わらぬ部屋の暗さ。窓から覗く月明かり。
 布団から抜け出て隣に眠る人間を起こそうとしていた俺。
 ――目の前で上体を起こしている姉。
「姉……貴?」
「……」
 黙りこくったまま姉はじっとこちらを見つめてくる。何か不思議な生き物でも見るかのような目だ。寝起きはいつもこんな顔をしているが、いつも以上に虚ろな目。言うなればゾンビ。
 そうして三十秒ほど見つめ合ったあと、姉貴は不意に自分の手元を見やった。
 その白い手の上には黒い点のような痕跡――奴の死体が、あった。
「弟よ……」
 目の前の顔はゆっくりと口を開く。静かに、一文字一文字なぞるように。
「なんだよ」
「たかが蚊一匹から姉も守れずにヴァンパイアハンターを名乗るか。修行が足りないわね」
「ぐっ……」
 姉貴は枕元に置いてあるごみ箱に奴の死骸を放り込む。
「まだまだ免許皆伝には遠いわね。あそこで先手を打つのはまだ早いって、何度言ったら判るのよあんたは」
「間違いなく殺れると思ったんだよ」
「でも実際逃げられたじゃない」
 言葉に詰まる。まさにその通りだ。いくら言い訳をしても、奴を殺り逃したという事実は揺るがない。そうして姉貴の手を煩わせてしまった。どうしようもなく、自分が情けない。
「そのそそっかしいところをもーちょっとどうにかすれば、そこそこ行けると思うんだけどね」
「悪かったなー、そそっかしくて」
 俺はそう言い捨てて布団の中に潜り込む。もう今宵は奴の襲撃もないだろう。あまり起きていると自己嫌悪に陥ってしまいそうなのでさっさと眠ろうと思う。
 ふて腐れたと思われても構わない。最近は調子が悪く、奴を一撃で仕留められなくなってきたということもあって、少しばかり気分が沈んでいるような気がする。
 こういう時は寝るに限る。睡眠は脳内のわだかまりを綺麗に整頓してくれるのだから。
「もうちょっと反省とかしないの、あんた」
 呆れたような声が聞こえるが、俺は布団を被ったまま適当に答える。
「次がんばる」
「はいはい。じゃ、また次よろしくねー」
 そうやって奴の退治役を俺に押しつけると、姉貴は布団に潜り込んですやすやとすぐに眠ってしまった。自分の姉ながら、相変わらず寝るのと食べるのだけは早い人間だと思う。せめて起きるのも早くしてくれ。
 姉貴にいいように使われているような気がしないでもないが、だが別に不快でもなんでもなく、むしろ彼女の役に立てることは割と望むところなので考えるのはやめる。彼女の安らかな寝顔を守ることが出来ればそれでいい。……今回は不覚にも起こしてしまったけれど。
 まあ、それなりに不満のない生活だ。
「龍司」
 不意に名前を呼ばれて、首を捻る。隣の枕には、にこりと笑った姉貴の顔があった。
「あんまり焦らなくてもいいわよ、あんたに素質はあるんだから」
「はいそうですか」
「本気で言ってるんだけど」
「判ってるよ」
 むっと唸るような声がして、姉貴は布団を少し引き上げる。
「まあ、ほら、」
 努めて明るい声で、だけど声量を抑えてささやいた。
「本当のヴァンパイアが来た時にちゃんと守ってくれれば、それでいいから」
 不意打ちで、しかもそういう笑顔でそういうこと言うのは……卑怯なんだってば。少しくらいは自覚しろよ……っていうか自覚してると思うから尚更たちが悪いというかなんつーか。
「……当たり前だろ」
「ならよーし。じゃおやすみ」
 俺の狩り練習は、まだ暫く終わりそうにない。




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